【Prologue】

 まるで、洪水のようだった。
赤褐色の絵の具が、靴底にまで絡んでくる。
べたつく床から足をはぎ取るように進めば、それは、つき当たりのドア下から流れ出ていた。
汚れたドアノブをそっと回せば、はじかれたドアと共に、それは一気に溢れ出てきた。

 街角ですれ違った、クロック・メーカーの青年が言う。
いかに深い暗黒の血であろうとも、光を奪うことは出来ない。
光は時を戻し、そして真実を照らすだろう、と。

「あるジャーナリストの手記より」

【Message from the Darkness】

 母校の女子大で研究を続ける美術学者の水無瀬は、いつものように朝食をとりながら、傍らの朝刊を走り読みしていた。難しい経済や政治面に、興味を覚えるような記事は、今日も無い。

 しかし、ローカル面にさしかかった時、ひと際大きく掲載された絵画の写真に目が留まった。
そこには、総合医療センターの竣工記念として寄贈されたと、記者のコメントも添えられている。

 水無瀬は、名ばかりのフレッシュ・ジュースを口にしながら、食い入るように写真の絵画を見た。

 どことなく破綻したような、構図や色調が特徴的な抽象画ではあるが、どうしても芸術性を見出せない。新聞記事の写真を見る限りでは、正確なことは分からなかった。しかしなぜか、妙な違和感が頭に残り、次の記事へと進めずにいた。

 朝の陽ざしが、南向きの窓から差し込み始めた。ブラインドの影が、白い円卓に幾重もの斜線を残している。秋らしく、このところの陽光は穏やかだった。

 最初の違和感が、どうしても気になっていた。美術学者の本能というわけではないが、画風からその理由を読み取ろうともした。しかし水無瀬は、諦めて新聞から顔をあげ、窓の外の景色に目を向けた。
いつもの街並みだが、朝陽を纏った風が、時折色づきはじめた木々を揺らしている。

 やはり、新聞ではよくわからない。
グラスに残る、わずかなジュースを飲み干して、一呼吸ついた。
次の瞬間、向かいの椅子に掛けていたジャケットをつかみ、ダイニングを飛び出していた。
グレープフルーツの苦みが、舌を刺した。

 * * * 

 フリーランス・ジャーナリストの朝比奈えりかは、父が院長を務める総合医療センターのメインロビーの2階にいた。
ロビーは広く、中央上部は3階の高さに届く吹き抜けになっている。全体に陽ざしがよく入る構造で、かなり明るい。白壁がまぶしく、ソファには多くの人々が座っている。どことなく、ホテルのロビーのような時間が流れていた。

 2階の吹き抜けからは、1階ロビーに展示されている真鍮製のイーゼルに乗せられた絵画が良く見えた。患者の待合ロビーには、あまりにも不似合いなその絵画は、医療センターの竣工記念として、2カ月程前に匿名で寄贈された抽象画だった。
えりかは待ち時間の間、その絵画を眺めながら、当時の様子を思い出していた。

 2カ月前、寄贈品に関する記事を書いて欲しいという父の依頼を受け、えりかは完成したばかりの新病棟へと赴いた。広報担当の不知火の案内で、真っ白な一室へと通された。
 調度品さえも、未だ設置されていないこの真新しい部屋の用途は分からないが、イーゼルに載せられ、白い布で覆われた大型キャンバスが部屋の中央に佇んでいた。
 近くまで歩み寄ってみれば、背丈を優に超えている。えりかは沈黙のまま、キャンバスに掛かる布を、そっとめくり上げてみた。

 一瞬、息をのんだ。想像とは真逆な絵のイメージに、えりかは内心驚いた。
院内に飾られる絵画というのは、明るく清らかな風景画などを想像するものだ。しかしこの絵は、安らぎというには程遠い。誰が見ても、人命を尊ぶ病院に贈られるようなものではなかった。

 作者は不明だと、不知火が教えてくれた。細かな技法や色彩表現などは、えりかには分からない。無造作に、ナイフで油絵の具をのせているだけの様に見えるだけだった。ただ、暗い色調を強く感じた。赤色を多用しているにもかかわらず、暗い。

 バックヤードにある予備の部屋とはいえ、フロートガラスの大きな窓からの太陽光で、室内は明るいはずだ。しかし、絵自体が光を吸い込んでいるような錯覚に陥ってしまう。
 長辺が145センチを超えるキャンバスは、この部屋に陰湿な空気と、狭く息苦しい圧迫感を放っていた。

 一体、誰が何を想ってこの絵を描いたのか。最初の印象が、フォーカスリングにかかる指先を鈍らせる。えりかは必死にカメラ・アングルに意識を戻そうとした。

 しかし、ファインダー越しに絵画を見ているうちに、思わずシャッターボタンを押そうとしていた指を止めてしまった。
「何かしら…」

 ファインダーから顔をあげ、肉眼で絵画を眺めた。
そして、違和感の原因を探るため、イーゼルに立て掛けられた大型キャンバスに、ゆっくりと近寄ってみた。
無作為に塗り重ねられた絵の具の表面に、よく見ると、意図的な乱れがある。
まるで、何かを塗り固めているような…。

 * * * 

 「到着されました。少し早いですが…」
不知火の声で、えりかは我に返った。どうやら、美術学者が到着したようだ。

 不知火は、この総合医療センターの広報室長で、患者やその家族、医療機器メーカーやメディアに対し、最先端の医療機器、病棟や診察室の充実性、万全な医療技術と安全管理体制などについての広報活動を一手に行っている。

 広報室の業務は膨大で、時には事務所に泊まり込むこともあるほど多忙を極めている。しかし、彼はいつも笑顔を絶やさず、患者にも優しく接することができた。それは、この医療センターの職務に対する情熱だけではなく、彼自身の人間性によるところが大きい。

「学者ぐらいでしか、興味をもってもらえないですよね。でも、どうします?本当は、ものすごく有名な画家の絵だったら」
 その学者は、絵画の写真を新聞で見て、興味を持ったのだという。
実物の鑑賞だけでなく、取材時の説明も求められたため、不知火から同席を求められたのだった。

 えりかは、少し面倒な気分で、不知火の会話をよそに鏡のようなオニキスの階段を下りていった。
まだ新築のにおいが、ロビーに漂っていた。

 深いお辞儀から顔を上げたその女性は、水無瀬と名乗った。
客員研究員として、母校でもある近くの女子大に所属する近代美術学者である。学者という想像が先走っていたせいか、実物はかなり違っていた。

 不知火は、水無瀬を応接室へ通した。簡単な挨拶を済ませた三人は、黒革の大きなソファに腰をおろした。

「それでは早速ですが…」
 寄贈された絵画について、不知火がえりかへ説明を促した。
淡々と経緯を話すえりかの言葉一つ一つに相槌をしながら、水無瀬は手帳にメモをとり始めた。

 10月に入り、ようやく秋を感じさせる風に変わった。窓の外に見える銀杏並木も、薄黄色に変わりはじめていたが、水無瀬は額の汗をそっと拭った。

 この医療センターは、もとは小さな診療所として開院し、今年で30年が経つという。

 それが、今では大きく発展し、地域のシンボル的な総合病院になった。ここまでの規模になるとは、誰も想像していなかっただろう。

 しかし、当時から朝比奈院長は地域住民に信頼され、親しい人柄ということも手伝い、診療所はいつも人であふれていた。医療をもって地域の発展を目指し、スポーツを通じて青少年の育成にも意欲的に取り組んできたことが、今日のこの病院の発展に繋がっているのだろう。

 「父は、お人好しですから」
 病院に不似合いな絵画とわかっていても、寄贈元を気遣った朝比奈院長が、ロビーでの展示を許可したのだという。しかし、そう言うえりかでさえ、20分もすれば、絵画について話す内容も尽きてしまった。結局、みなこの絵画について、何も知らないようだ。
「とにかく、ご覧いただきましょうか」
沈黙しそうになる空気を嫌い、不知火が切り出した。

 その絵画は、新病棟に展示されている。この応接室がある旧病棟から、いくつかの病棟をつなぐ渡り廊下を抜けた先にあるという。

 廊下には、他にも美術品が置かれ、額に納まった大小の絵画も数多く飾られている。
しかし水無瀬は、それらには全く目もくれない様子で、目的の場所へと足早に向かった。先程まで、えりかが絵画を見下ろしていた同じ場所で、一度立ち止まった。

「あれですね…」
と、水無瀬は独り言のように言ったが、二人の返事を待たずに、小走りのような足取りでまた進み始めた。

 案内するまでもなく、水無瀬はその絵画に向かい合った。一呼吸遅れて二人が追いつき、凍ったように硬直する水無瀬の横顔を見た。目だけが、キャンバスのあちこちへ飛びまわっている。
二人は、無言で絵画に向き合う彼女を見守っていた。

 看護師が行交う足音だけがロビーに響く時間帯へと、移り始めた。このあと、午後の診察が始まるまで、一時的にロビーは静まり返る。

 しばらくの間、静かにマイクロスコープを覗いていた水無瀬が、弾かれたように顔をあげた。
「この絵画の調査を、私にやらせてもらえますか?」
水無瀬の突然の申し出に、えりかは頷きながら不知火の顔を見た。

「…では、これをお持ちください」
水無瀬は、不知火が差し出す手に視線を落とした。
「招待状です。この絵画と共に送られてきたものですが」
「アトリエ…"THE FLOOD"?」
聞き覚えのないアトリエの名前が印刷されている。
「この絵画と、何か関係があるかも知れませんね。調査の役に立つといいですが」
不知火はいつもの笑顔で、招待状を水無瀬に手渡した。

(THE BLOOD FLOODへ続く)

このストーリーはフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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