20th
【正体】1991.8.25 主治医

 明らかに、顔色が悪かった。そして、血の匂いだ。
ひと目で、死期が近いことを悟った。その口数の少ない担当捜査官が去ったあと、母親を休ませた。
玄関ポーチから、屋内まで続くテラコッタタイルのリビングに戻り、ウォールナット製のローテーブルに残されていた写真を掴み上げた。
立ったままでしばらく眺めた後、写真を握りつぶしながら、ドクターコートのポケットに入れた。

 担当捜査官だという男に思いを巡らせながら、一週間振りに医務室に入った。
あの男に、どこかで会ったような気がしてらないのだ。
持参したカルテをデスクに投げ置いた時、電源を切っていたはずの監視モニターが作動していることに気がついた。静かに、無人の室内を映し続けている。
「…何故だ」

 ひとり言いながら、モニターの側面に触れてみた。高温になった本体が、長時間作動していたことを示す。主治医は、モニターに映し出されている、誰もいない少女の部屋をしばらく凝視した。
すぐさま録画リストを開き、1週間前の洋館を出た日の室内データを選び、再生した。そしてまた、現在のライブ映像に切り替えて見比べた。
「絵本が…無くなっている!」

 画面から半分だけ写り込んでいたデスク上の絵本が、ライブ映像から消えてなくなっている。1週間前の映像には、確かに映っていた。 主治医は、1週間前の同じ日のリストを再度開いた。今度は、玄関のアングルに切り替え再生した。すると、画像の奥の方で、庭木の間を行き来する、呼びもしていない庭師の姿が確認できた。
「この男か!?」

 そのまま手を止めず、今度はさらに日をさかのぼり、少女が逃亡した7月15日の録画データを開いてみた。すると、当時よく来ていた記者の男が映し出された。玄関カメラのアングルでは、顔まではっきりと認識できる。
「この男…、同じだ!」
 顔色こそ違うが、先程の担当捜査官と同じ顔の記者が、映し出された。背格好からすれば、庭師の男も同一人物だろう。

 1週間前、ここを出た後に、庭師に扮した奴がこの医務室に侵入したことは、間違いないだろう。カメラに映らない場所を、予めモニターで確認しておいてから、少女の部屋に侵入した。そして、画面から半分切れて映っていた絵本を、カメラのフレームの外から抜き取った。それは、入れられたままだった監視モニターの電源が、物語っている。しかし、それだけではない。もっと重要なことに、ようやく気が付いた。
「公園で邪魔をした男だ!」
 額の左側に残る傷跡に触れながら、思わず口にしていた。

 あの男は生きている。そして、少女も生きているだろう。ただの記者だと思っていたが、甘かった。ずっと前から、あの男は懐に入り込んでいたのだ。
重要な情報を奪われたと、思った方がいい。
いや、それだけではない。あの男も、そして少女も、自分にとっては大きな致命傷になる。

 取材だと言っては、毎日のようにここに来ていた記者。公園でもみ合ったあの時、確実に仕留めておけばと後悔した。しかし、すぐに思い直した。今日の顔色を見る限りでは、先はそう長くはない。
ただ、この洋館は近いうちに、引き払わなければならないだろう。

20th【正体】終

21st
【ERIKA Ⅱ】1991.8.30 朝比奈院長

 少女を預かってから、1カ月以上が過ぎた。あの記者の男は、依然帰ってこない。
少女は、ここに来て3日程で元気になった。しかし、経過観察を続けるなかで、少女が記憶喪失だということも確認できた。自分の名前も、住んでいた場所もわからない。襲撃によるショック性のものではないらしいが、単純なものでもなさそうだった。

 最近は“えりか”という妹の名前をよく口にする。誰もいない空間に向かって、あたかもそこに妹が存在しているかのように話したりもする。
本人の名前を、何かの記憶障害によって妹だと思い込んでいるかも知れない。そもそも、少女の身元が分からない以上、妹の存在など、知る手立てがない。

 この1カ月、少女は何事もなかったかのように過ごした。奪われていた自由を取り戻したかのように、明るく活発になった。そして、よく口にする“えりか”という名前で、少女を呼ぶようになった。
最初は戸惑っていたが、すぐに慣れたようだ。

 特に驚いたのは、絵が非常に上手なことだ。何も見ないで、頭に残るイメージだけで、絵を完成させることができる。中でも、古時計を見上げる少年の様子を描いた絵は、それだけで物語が伝わってくるほどだった。

 しかし一昨日の夕方、茶封筒がポストに届けられていることに気が付いた。血の手跡が薄っすら残るその封筒をみて、彼からだとすぐに分かった。
中には、絵本が入っていた。そして、手書きのメモと写真が一枚、その絵本に挟まれるように同封されていた。

“少女なら、知っている。1991/8/26”という弱々しい字体が、力尽きようとしていることを物語っている。そして、写真には、見知らぬ豪奢な洋館が映っていた。

 余りにも唐突なことに、戸惑いを禁じ得ない。溜息をつきながら、自身のデスクに座り、そして思案した。えりかに見せたところで、混乱するだけではないだろうか。
デスクにおいた写真を、改めて見た。そして、“クロノス”と題された絵本を手にとって、何気に1ページ目をめくってみた。
「この絵…」

 朝比奈は、どこかで見たことがある絵だと思い、記憶を巡らせた。
そして、えりかが描いた沢山の絵の中から、一枚を見つけ出した。

「こんなことって…!」
 寸分狂わない“古時計を見上げる少年”の絵は、朝比奈の背中に、冷たいものを走らせた。
朝比奈は、彼が書いたであろうメモの言葉通り、えりかが何かを知っているかもしないと思い直した。
そして、“クロノス”という絵本を、えりかに見せることにした。

 「これ、大好きな絵本なの!」
絵本を見るなり、えりかの顔が、パッと明るくなった。
後ろに束ねた長い髪を胸元に下し、手にした絵本をさっそく読み始めた。朝比奈は、しばらくその様子を眺めていた。

 えりかが言うには、毎日この絵本を読んでくれていた母親がいたという。やはり、母親の名前も覚えていない。
しかし、自分の部屋で、時には妹と共に、その絵本の挿絵(さしえ)を写し描いたという記憶は存在する。

 記者の青年は、写真にある洋館とえりかの関係を、絵本を見せることで証明しようとした。そして、えりかのその様子から、それは証明された。

 3歳の頃に誘拐され、写真の洋館に4年間、監禁されていた。そして、理由は分からないが、洋館から逃げ出したえりかは、何者かに襲われそうになったところを、あの記者に救われた、といったところだろうか…。それにしても、あの青年に瀕死の重傷を負わせてまでも、えりかを襲わなければならない理由とは、一体何だったのだろう。青年は、きっとそれを突き止めるため、えりかをこの診療所に預けて戻っていったに違いない。

21st【ERIKA Ⅱ】終

22nd
【24年後】2015.4.10 朝比奈えりか

 父の朝比奈聡一郎から、自分は養女だと知らされたのは、高校に入学して間もないころだった。父は、なぜか申し訳なさそうに話したが、自分はそれほど驚くこともなかった。父が結婚していないことは、ずっと前から分かっていたし、本当の父親でないかも知れないと、それなりに気付いてもいた。
僅かに残る幼少期の記憶に、母親だという女性がいたことを覚えている。しかし、彼女が本当の母親ではないことは、子どもながらに分かっていた。そして、母親だと受け入れようともしなかった。だから、自分は独りだった。

 父と血が繋がっていないことに、後ろめたさは感じない。むしろ、自分の“病気”を長年診てくれ、不自由なく育ててくれた父を、唯一の家族だと思っている。父が、自分を独りにしまいとしてくれていたことが、今になって痛いほどわかる。
 記憶障害の自分を、父はずっと心配してくれている。それは、30歳を過ぎた今でも変わりない。 すべての記憶が戻ったわけではないけれど、でもそれ以上に父は、自分に思い出という大切な記憶を与えてくれた。感謝以外、何もない。
しかし、父にもらった思い出の外にひとつだけ、忘れられない記憶が残っている。それは、自分にカメラを預けながら、また戻ると言った青年。雨の闇夜に消えていくその後ろ姿を見送る自分の記憶だ。
それは、今でも鮮明に覚えている。

 「待たせたな」
 父はいつも遅れる。しかし、今朝いきなり相談があると持ち掛けたのだから、今回は仕方がない。
いつものように、物思いにふけりながら、ひとり院長室で待っていた。父は忙しくても、必ず時間を作ってくれる。
昨夜、夢を見た…夢だった、と思っている。
黒のジャケットを着た記者の青年が現れた。シングルハンド・ストラップで持つカメラは、自分に託したものだ。夢だったか現実か、いずれにしても、彼が現れたことに驚きはなかった。むしろ、彼が現れるのを待っていた、という不思議な感覚だった。彼はその夢の中で、“もうすぐだ”と、それだけを自分に伝えて消えた。

 相談というのは、その夢のことだった。
父に、見たままのことを話した。黒革のパーソナルソファに大きな体を丸くして座り、片側のひじ掛けに頬杖をつきながら、静かに聞いている。
「24年後…だったね、今年で」
 父は、クリスタルガラス製のローテーブルに、ラウンド・フレームの眼鏡を置きながら言った。

 「…24年後?」
「24年前に、あなたが私に言ったことだよ、えりか」
そういいながら、自分のデスクに戻るなり、受話器を取った。
「…あぁ、不知火くん、私だ。例の物件、押さえるように連絡しておいてほしい」
片手で、両方の目頭をつまむように押しながら、父は短く部下に伝えた。

 父と共に生きてきて、24年が経とうとしている。
早い段階で、障害といえるものは、ほぼ完治した。その後は勉学に集中し、父と同じ大学の医学部に入った。医師免許を取得してからの2年間は、研修医もこなした。しかし、診療科を絞れず悩み続けた2年でもあった。
学費や生活費も、すべて父が用意してくれたが、気が付けば記者の道を歩んでいた。それでも父は、今の仕事を応援してくれている。後ろめたい気持ちがあるとすれば、それだろう。

 春の風が、病棟の谷間を抜けていく。その向こうに、きらきらと輝く海が見えた。最上階にある院長室の大きな窓には、そんな明るい景色が広がっている。 えりかは、なぜか胸のつかえが消えていくのを感じていた。

22nd【24年後】終

23rd
【記者】2015.11.25 朝比奈院長

 24年前、“クロノス”という絵本と共に、記者の青年が残した写真をもとに、この洋館の所在を調査した。数ヶ月してようやく、意外なほど近くに洋館を発見した。しかしその時すでに、不動産会社の管理物件になっていた。
 当時、洋館について幾度となく問い合わせを繰り返すうちに、その不動産会社社長の神宮寺とは親しくなった。それがもととなって、神宮寺には朝比奈総合病院の開院でも世話になり、そして5年後の2020年次期医療センター建設計画にも参加してもらうなど、深い付き合いになっていた。

 その不動産会社から、管理物件となって久しいこの洋館の鍵を預かり、今日もまたやってきた。24年前に一度だけ会った、あの青年と再会するために。

 空いた時間だけだったとはいえ、5月の半ばから、実に半年以上もここへ来続けている。いつ、どの時間に現れるのか、分からないからだ。

 はじめは、えりかが会いに行くと言ってきかなかった。さすがに娘一人では危険だと、その度に否定し続けた。しかし、えりかには行かせたくない本当の理由が、他にあった。

 青年と再会するためには、あの場所…あの洋館に行くしかないと考えていた。しかしそんな所へ、えりかを行かせるわけにはいかない。なぜなら、幼少期の苦難の記憶が蘇る危険があるからだ。そしてそれは、長い月日をかけて取り戻して来たえりかの人間らしさを、一気に崩壊しかねない。

 えりかには、もうこれ以上苦難の記憶は、必要ない。故に、自分が行かなければならないのだ。

 “また会える”と言ったのは、記者の青年ではなかった。
24年前に、えりかを診療所に残して立ち去ろうとした青年本人が、えりかに向けて残した言葉だと思い込んでいた。
しかし、その後の診察とセラピーの中で、それはえりか自身が発した言葉だったと、偶然知ることとなった。

 当時7歳だったえりかは、立ち去ろうとする彼の背中に、24年後の彼の姿を見ていたのだという。
それは、どこかの2階にある部屋の窓から、青年がやって来る姿を見ている風景だったらしい。

 えりかの中に深く眠っていた記憶のひとつだが、説明のつかない予言的なものでもあった。 しかし、事件的な出会いからはじまり、奇跡的な回復と成長を続けるえりかと共に生きてきた中で、医学や科学がすべてだった自分が、変わっていくことに気付かされた。 そして、あり得ないような話も、えりかを信じている限りそれは事実なのだと、信じようとしてきた。

 疑いながらも秘密を守り、真実のあり方を考え続けたこの24年という月日は、自分にとっては、あまりにも長かった。
しかし、それらすべてが苦悩に満ちていた訳ではない。それ以上に、手に入れたものは決して少なくはないのだ。

 そんなことを思い返しながら、住宅街を一周して戻ってきたとき、ひとり洋館を見上げる若い男性に出くわした。何かを探るような目つきで、視線をあちこちに飛ばしている。

「誰も買い手がつかなくてねぇ」
不動産会社の人間のふりをして、話しかけてみた。その男性は、記者のようにも見える。そして、思いのほか若い。
「十数年前までは、あんたのようなフリーランスの記者がよく来ていたよ」
記者と言い切ってみたが、否定をしなかった。
「どうりで…」
記者は静かに、たったそれだけの返事を返してきた。

 「最近は、だれもこなくなったというのに、あんた、なぜ今頃来たんだね」
 鍵束に手間取りながら、その場を取り繕うように言ったが、最近誰か来たかと、逆に質問を返してきた。適当な会話のつもりだったので、返された質問に答えずにいた。どうせお互い、他愛もない探り合いだろう。そのまま、少女の…えりかが監禁されていたであろう部屋へと連れて行ってみた。

 記者は、ここが目的の場所だったかのように、ごく自然についてきた。そして、黙ってしばらくの間、薄暗い部屋の中を見ていた。
 突然のように、20年前に失踪した住人の話を聞かせてみた。もちろん作り話なのだが、記者はそれには気づいた様子もない。
 すると、急にめまいを起こしたように、ふらつき始めた。必死に冷静を保とうとしているが、額には汗をかいている。“デジャヴ”と言ったように聞こえたが、そのまま膝をついてしまった。

あえて、声を掛けず話を続けながら、様子をみていた。視点が定まらず、肩で息をしながら、目や頭をしきりに手で覆ったりしている。どうやら、何かの幻覚を見ているようだ。統合失調症や精神障害、見た目の年齢からして、若年性認知症の疑い、といったところか。
 何れにしても、洋館の前で出会ってからの一連の状況を考えれば、決して普通とは言えない。この人物が、24年前にえりかを連れてきた青年かもしれない。

「これを…」
 えりかのカメラについていたスケルトン・キーを、思い切って彼に手渡した。
彼は、一瞬我に返ったように、手に取った鍵を見つめた。そして、少しの沈黙のあと、そのまま部屋から走り去ってしまった。

 急に静寂に包まれた。開け放たれた窓から差し込む午後の陽光に、微細な埃が弱々しく光って見え隠れしている。この部屋に入ったのは、これが初めてではなかったが、やはり胸が締めつけられる。

 分厚いカーテンが空け開かれた窓に近づき、ひとつ息をつきながら外を眺めた。オリーブの木々の間に、ゆらゆらと遠ざかる記者の姿が目に入った。

 しばらくの間、その姿が見えなくなるまで、彼を見送った。深手を負いながらも、えりかを守ろうとした青年の面影を、ふと思い出した。

 2階からでも、ひと目では収まらない広大な庭は、ひどく荒れたままになっている。買い手が付かなかったのではない。神宮寺が、売らずにいてくれたのだ。

 24年前の約束を、やっと果たせた。海がある方角を望み、深く息を吸った。
朽ちたラタンのガーデニングソファーに座るか細い女性が、こちらを見上げて微笑んでいた。

23rd【記者】終

24th
【正体 Ⅱ】2016.11.18 記者

 まさに、急展開だった。
室内で発見した、誰かの手帳にある情報をもとに、独自で調査を続けてきた。しかし、管理人ですら見つけ出すことができていなかった。
そればかりか、見知らぬ公園の写真や脳外科に関する専門書、どこか病院のような場所の調査資料など、身に覚えのないものを室内で発見し、混乱している。まるで、他人の部屋にいるようだ。
そして、ことある毎にデジャヴが繰り返され、苛立ちと焦りを覚え始めていた。

 スケルトン・キーを手にしてから、1年が経過したころのことだった。
偶然、室内のキャビネットの奥底から、医療用のメスとくまのぬいぐるみを発見したのだ。どちらも、赤褐色の血でひどく汚れている。なぜ自宅にと、思う間もなく恐怖が先に立った。思わず吐き気を覚え、暗室にもなっている洗面所へと駆け込んだ。

 勢いよく蛇口をひねり、冷たい水で顔を数回流した。洗面台に両手をつき、息を整えようとした。
そして、首を上げ、自身の顔が映る鏡を見た。

 「!!」
 真っ青な顔色が、目の下のくまを際立たせた自分自身と目が合った。
そして見ている間に、左腕あたりに赤黒い血が、じわりと浮かんで出てきた。そして腹部には、更に大きな赤黒い染みが、ゆっくりと白いワイシャツに広がる。まるで、造られた映像を見ているような奇妙で恐ろしいことが、自分の身に起こっている。驚きで、声も出ない。そして、これはデジャヴではなかった。

 脚に力が入らず、後ろの壁に背中をぶつけるようにもたれ掛り、そのまま座り込んだ。腹部を押さえていた右手を見れば、手の平が真っ赤な鮮血に染まっている。しかし、不思議に痛みが無い。

 どれだけの時間が過ぎたかは、分からない。
動くこともできず、しばらく暗室の洗面台の前に座ったままでいた。どれだけ待っても、デジャヴは起こりそうにない。なぜ、自分が血だらけのか、全く理解できない。これ以上、考えたところで、答えが出る訳でもないだろう。

 ふと、洗面面台の下をみると、フィルムケースが転がり落ちている中に、小さな黒い手帳を発見した。座ったまま、血で汚れた手を伸ばして拾い上げたそれは、偽物とすぐに分かる警察手帳だった。
 片手のまま、親指でなぞる様に表紙をめくれば、偽身分証明のページが開いた。

 「…なぜだ!」
 思わず叫んでいた。見覚えすらない偽の警察手帳に、自分の顔写真が貼られている。
勢いよく立ち上がり、正面の鏡を見れば、捜査官のようにスーツを着た自分が映っている。
「どういうことだ…」
 言いながら、居間に戻って明かりをつけた。何かの手掛かりを求め、両手で荒っぽく偽手帳をめくる。すると間もなく、破り取られたページを境に、左右見開いたページで手が止まった。ゆっくりと、右のページを一枚たぐり、左のページへと送った。

 そして、そのままたぐり送った右ページを、強く左ページに押し当て、傍らにあった鉛筆を素早く擦りつけた。
“少女 ら、知   る。1 91/8/26”
という文字が、フロッタージュで弱々しく浮き出てきた。

 室内を見渡し、山積みされた、一番上の新聞をつかみ上げた。4月に失踪した男児が、無事保護されたと報じるその新聞は、1991年8月10日のものだった。 また、別の山に積まれている雑誌も、やはり8月号以降のものがない。そして、最初に見つけた手帳のスケジュールも、8月26日を境に情報の書き込みが途絶えている。

「時間が、止まっている…」
次の瞬間、今までのデジャヴが、連続した映像となって目の前を流れていく。それは、時間軸を巻き戻しながら、時にはゆっくりと、またある時は激流の速さで流れた。

24th【正体 Ⅱ】終

25th
【再会】2018.7.15 ジャーナリスト/記者

 工事がはじまって、3ヵ月が経とうとしている。2020年の竣工へ向けて、建設現場への人の出入りも増えてきた。奥には、新しい緊急救命センターの基礎の輪郭が見えるようになってきた。ここからでも、その建屋の大きさを想像できる。

 えりかは、夏の日差しが容赦なく差し込んでくる、事務棟の2階の一室にいた。古い部屋だが冷房がよく効いている。何気に窓際へ歩けば、南向きの正門から入ってくる一人の男性が目に留まった。
朝比奈総合病院へと拡張するために新設されたこの事務棟は、本館の西側に位置しており、正門まではやや距離がある。しかし、ここからでもその男性はよく見えており、えりかは窓に乗り出すようにして、しばらく眺めていた。

 「不知火さん、すぐ父に連絡して!」
えりかは言うなり、部屋を飛び出して行ってしまった。
広報室の不知火は、不思議そうに院長室へ内線をかけ、院長にそのままを伝えた。気になった不知火は、受話器を置いて、先程までえりかがいた窓辺まで行ってみた。

 ピロティを出て、正門まで伸びるレンガ敷を駆けていく、えりかの後ろ姿が見えた。突然止まり、一人きりで振りを交えて何かを言っているように見えたが、さすがに声はここまで聞こえない。
30秒程して、今度はピロティに向き直り、一人きりで歩いて帰って来ようとしている。首をかしげながら見ていたが、不知火はすぐ興味をなくしていた。

 朝比奈院長は、数分遅れて応接室へやってきた。分厚いドアを開けて中に入ると、えりかが目の前に立っていた。

「お父さん、これから話すことに、かなり驚くかも知れないけど…いい?」
「どういうことだ、えりか…」

“先生”
 えりかの背中の後方から、男性の声が飛んできた。
“少女を…、いや彼女を…有難う”

 そしてえりかが、ゆっくりと頷いて見せた。それでだけで、院長には十分だった。
道を開けるように、えりかが身をかわすと、その先の黒革のソファに、青年が座っていた。

“管理人だと思い込んでいたよ。おかげで、3年も遅刻をした”
「…生きていたのか!」
 院長の上擦る声に、えりかはうつむいて目を閉じた。
“その様子なら、見えているようだな”
 朝比奈院長は、ラウンド・フレームの奥で、目をしばたかせた。
青年の言葉が、なぜか頭の中に直接干渉しているような、不思議な感覚だった。

25th【再会】終

エピローグ 2020.9.1

 大勢の記者やカメラマンが、視界を横切るように目的の場所へと駆けていた。
古いカメラを手にした記者の青年がひとり、その流れの中に立ち止まり、自分を見ていることに気が付いた。

 “久しぶりだな”
頭の中に響く、不思議な声だった。
式典前の取材に集まった、多くの記者やカメラマンの喧騒が、いつの間にか耳から消えている。

 驚くほどの静寂に包まれると、その記者の青年は、他の記者の流れの中からすり抜けてきた。
目を細め、強い日差しを和らげて見れば、白いワイシャツの左腕と腹部に、どす黒い出血の跡があることに気が付いた。カメラのレンズも破損している。
「誰だ!?」

 “俺のことなど、忘れていても驚きはしない。しかし、少女をここまで探し続けてきたとは、大したものだな。それも主治医としての務めか?“

「何を言っている…」
 主治医と呼ばれ、一瞬たじろぎながらも、頭の中に聞こえる声に抗った。
“誘拐、記憶操作、人体実験…少女の監禁、そして挙句には殺人。お前の犯罪は、全て白日の下に、晒される!”

 「ちょっと待て!お前は一体…」
主治医は、助けを求めようとして辺りを見回した。
“無駄だ!俺の姿は、お前にしか見えていない”
記者の声は、貫くように冷たく響いた。
“ちょうど今頃、暴かれたお前の悪行が、記事となって世に出ている頃だろう”

 「記事だと!?」
定まらない視線が、左後方に立つひとりの女性記者の姿をとらえた。スケルトン・キーのチャームをつけた、一眼レフカメラを首にかけている。
口元をきつく結んだ女性記者が、主治医に一歩近寄った。
「まさか…」
言いかけて、年老いた主治医は空を見上げたまま、言葉を切った。

 遠のく夏には、あまりにも不似合いな青い空だった。
総合医療センターの真新しいフロート・ガラスに太陽光が映り、濃淡な光の筋が、暑く焼けた歩道に降り注いでいる。正面のファサードには、報道関係者が詰めかけていた。

 あの日も同じような暑さだった。違いがあるとすれば、積乱雲が午後に雨を降らせた、夏特有の空だったことか。あの時は、蒸し暑い雨が夜の公園を包んでいた。

 被験者である少女が脱走したことをきっかけに、計画が大きく狂った。どうしても消せなかった、妹のえりかの記憶。少女を公園まで追跡し、研究の隠ぺいを図ったが、男の邪魔が入った。それは、研究が破綻した瞬間だった。そして、邪魔に入り、少女を救出した男というのが、この記者なのだ。命を投げてでも、少女を生かした男。

“そうだ、少女は生きている。朝比奈先生のもとで治療を受け、僅かな記憶も取り戻した”

 「朝比奈…」
自分には無い高度な医療技術や医学知識を持つ朝比奈を妬み、恨んでいた。そして、記憶操作による人格改造を、医学的に立証することで、それに打ち勝つ名誉を手に入れたかった。ただ、それだけだった。

“記事は、彼女が書いたものだ”  記者は、朝比奈えりかに視線を送りながら、微かに頷いた。
主治医は、驚きのあまり目を見開き、言葉を失って口元を痙攣させている。
 人の記憶を操作することなど、もとより不可能なことだったのだ。少なくとも、自分の能力ではできるはずがないと、気づいていたはず。そして、先天的に少女が持っていた、高度な記憶能力を発見したあの時、また同じ挫折を味わった…朝比奈のときと同じように。

「あの人…母は?」
 えりかは、何とか言葉を絞り出して言った。
「他界したと聞いた…10年以上前のことだ。ある療養施設で、最後まで女性の肖像画を、描き続けていたらしい」
主治医は、小さな声で言った。
それを聞いたえりかは、その場に崩れ落ちた。

 「お前は、あの時の記者だな…戻ってきたのか?」
“あぁ、29年前のあの日から”
遠くから、サイレンが聞こえ始めた。
「1年前の秋、あの洋館であった公開調査は、お前の企てか?何れにしても、私は見事に煽り出されたというわけか…」
 口元に、皮肉な笑みを浮かべながら、主治医はまた空を見上げた。

“お前には、救えた人生や命が、もっとあったはずだ”
「あぁ、そうだったな…」
主治医は、ゆっくりと視線を記者に戻して言った。

-完-

このストーリーはフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

プロローグ 1st〜7th

"主治医"〜"母親"

あるジャーナリストとの出会い。蘇る不可解な記憶の数々。少女の部屋で見たデジャブや20年以上前の少女失踪事件は現実か、それとも幻想なのか...

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8th~13th

"ベイエリアの洋館"〜"写真【母親】"

洋館の2階には、主治医に治療される少女がいた。そしてある日、少女は失踪した。血が付着した”くまのぬいぐるみ”の写真。少女は一体なぜ...

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14th~19th

"The Skeleton Key I"〜"写真【Journalist】"

取材に訪れた少女の部屋で強烈なデジャヴを感じ、洋館から飛び出したジャーナリストのポケットにはスケルトン・キーが。金庫の中の古びた「手帳」には24年前の事件が記されていた...

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20th~エピローグ

"正体"〜"再開"

ジャーナリストは誘拐されていた少女を救い、その後、少女は朝比奈院長の養子として暮らしていた。そして24年の月日がたったころ、再びあの時の記者が現れ、すべての真相が明らかに。

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THE BLOOD FLOOD 本編

"Prologue"〜"THE BLOOD FLOOD"

ある日、医療センターの竣工記念に寄贈された絵画に美術学者は目を奪われる。不可思議な恐怖心に襲われながらも、絵画が秘める謎を解き明かすためアトリエを訪れるのだが…

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HOTEL UNIVERSAL PORT VITA HORROR ROOM 2021
STORY 20th 〜 エピローグ